11.ドラマ
ドラマドラマ♪ドラマと言えばもうおわかりですね!

1980

  1. Machine Messiahマシーン・メシア
  2. White Car白い車
  3. Does It Really Happen? 夢の出来事
  4. Into the Lensレンズの中へ
  5. Run Through the Light光を超えて
  6. Tempus Fugit/光陰矢の如し
Trevor Horn: Vocals & bass on 5
Chris Squire: Bass, vocals, and piano on 5
Geoff Downes: Keyboards
Alan White: Drums
Steve Howe: Guitars
KEN
Jun Green
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KENのドラマ

『リスナーの純粋性を問うアルバム』

 イエスで、一番不当な評価に甘んじているアルバムは何だろう?
 この命題に差し掛かると、人は「エンドレス・ドリーム」を武器に『トーク』を挙げたり、敬愛するメンバーを引き合いにして『トーマト』や初期作品を挙げたり、ひいては難解さを好む人間の振りをして『海洋地形学の物語』を挙げるかも知れない。確かにそれらは時代背景やバンド・メンバーの変遷などを語るうえでは重要なポイントを含んでおり、その割には評価が低いことには違いない。

 だが待て。

 ここに断言しよう。最も不当な評価を浴びているのは本作『ドラマ』である。

 本作は、なぜならジョン・アンダーソンがいない。ビル・ブラッフォードもいない。気まぐれなリック・ウェイクマンなんか当然いやしない。所謂「黄金期」のメンバーではクリス・スクワイアとスティーヴ・ハウという、余り華のないふたりしかそこにはいないのだ。そこへ2代目にして現ドラマー、アラン・ホワイトが追従するという、やはり華のない3人が残っていた。
 なぜ「華がない」などと言い切ってしまえるのか――それは多くのファンの中にある「イエス=ジョン・アンダーソン」という暗黙の認識(であったもの)に基づいている。その音より先に、バンド・イメージはジョンの声、それにいつの間にか収束していたのである。

 だがそれでも、イエスはイエスとして活動を続けることにした。これを愚行とし、後の「アンダーソン、ブラッフォード、ウェイクマン、ハウ」こそがイエスの本流を受け継いでいる、と声高に叫ぶ人間が後を絶たない。だが、彼らは重要な事実を敢えて、見ない振りをしている。自分の中にある「イエス=アンダーソン」の虚像を信じたいばかりに、ピンク・フロイドのファンがロジャー・ウォータース信者になるのと同じように。

 重要な事実――

 「イエス」という名義の権利所有者は、バンド・リーダーであるクリス・スクワイアであるのだ。

 つまり、何だかんだ言っても「イエス=クリス・スクワイア」なのは事実である。これは彼が「イエス」というバンドの名義を所有しているためであり、それゆえに極端な話、彼がベーシスト不在のバンド――喩えばピンク・フロイド――に加入し、メンバーを説得さえしてしまえば、そのグループを「イエス」であると名乗っても構いはしないのだ。
 その彼が、何度も暗礁に乗り上げた本作のレコーディングで脱けたジョンとリックの穴を埋める新メンバーとして招き入れたのが、かのバグルスのふたり――トレヴァー・ホーンとジェフ・ダウンズ――であった。
 これにファンは、やはり激怒した。ジョンが歌わなければイエスでない、と紛糾したのだ。中にはジェフごときにリックのようなイエス・サウンドが奏でられるものか、と叫ぶ者もいた。トレヴァーのヴォーカルに対する意見が同質であったことは言うまでもない。

 さあ、そんなわけでようやく中身の解説だ。ああ長い前振りだった。

 「イエス=ジョン・アンダーソン」とする人々は、本作を槍玉に挙げる際「ただのモノマネ」だとか「でも似てない」だとか、とかく「以前のイエスの残像」を求めたうえで非難する。
 その時点で既に、おいおいおい、である。
 
 彼らは確かに「モノマネ」じみたことをしたかも知れないが、少なくとも「ただのモノマネ」ではないのだ。
 それは前述のフロイドよろしく、やはり他グループにもよく見られる現象だ。所謂「五大バンド」基準で見てみれば、エイドリアン・ブリューがフロントに立ったキング・クリムゾンを、人は「あんな声じゃいけない」だとか「しかもデヴィッド・バーンのモノマネ」と言った。フロイドの『鬱』を、人は「コンセプトがない」だとか「ベースがロジャーじゃない」と言った。ポップに接近したジェネシスなど「フィル・コリンズはピーター・ガブリエルのモノマネ」だとか「スティーヴ・ハケットのギターじゃない」だのと、現在まで言われ続けている。ELPなど方向転換に失敗してばかりで、進んでは戻ってばかりいたためにそうした非難さえ起こらず罵倒に終わってしまう。

 このように、ある程度の功績を築いてしまったバンドは、その黄金期の幻影を求められてしまうのだ。そのために方向転換を行っただけで、リスナーは「そっちじゃないよ」と進路を戻すことを求めるのだ。
 だが、同じ進路ばかりを進んでいったバンドは、ことごとく散ってしまうか、ごく普通のポップ・グループになり下げってしまうのも(プログレッシヴ・)ロックの道理である。

 しかし、前述のグループを見よ。80年代クリムゾンは現在大いに評価される時代になり、フロイドのファンはロジャーよりデヴィッド・ギルモア主導のフロイドを選んだ。ジェネシスばかりが過小評価されているものの、セールス数は比較にもならないほど伸びている。唯一方向性を転換さえできなかったELPだけが沈没してしまった。
 方向性の転換は、一貫して行われれば、やがて実を結ぶものなのだ。

 ではイエスの方向転換も、そう、本作も再評価されているのか?……これは難しい問題である。一方では、感情に踊らされず音を楽しめる人間がいるのも事実だが、やはり感情ゆえに切り捨ててしまう人間も多いままだ。そして現在でも、本作に於いては後者が大多数であるのも事実だ。

 イメージを捨てなさい。

 そうすることで、本作の楽しみはやがて得られる筈だ。

 確かに、メンバーだけを見れば華がなく、一番イエスらしくないラインナップだ。しかし一番イエスらしくないイエスだからこそ、逆に一番イエスらしいアルバムを作ることができたのではないだろうか? それを人は模倣と呼び、または「よくできたニセモノ」と呼んだわけだが。

 盲信をやめなさい。

 一介のファンであったトレヴァーとジェフだからこそ「ファンの思い描くイエス像」を読み取り、イエス・テイストを抽出、凝固、及び具現化できたのではないだろうか。実際に、全曲に亘って「イエスらしい」と言いたくなるような雰囲気や音色が散りばめられている。メンバーこそ違えども。

 固定観念を捨てなさい。

 そこにあるのは、この時期のイエス・メンバーが繰り広げるイエス・ワールド。それは異郷にも見えて、実は最もイエスの求めた理想郷のひとつ。ただその場所で理想郷を築き上げたのがジョンとリックではなく、ジェフとトレヴァーであったということ。それだけのこと。

 偏見を捨てなさい。
 そして事実だけを、見詰めなさい。

 本人達がコピー・バンドのようであったという事実も、無論そこにはある。トレヴァーがいかにジョン・アンダーソンらしく歌ってみせるか足掻き続け、そして誤魔化しの利かないライヴで失敗を重ねていたこと。声域の違う人間が完全なコピーなどできる筈もないのに、それを強制されたという事実。
 強制したのは誰? メンバー? トレヴァー自身? バンド・イメージを作り上げたジョン?
 それとも、その虚像を信奉する盲信者達?

 その声に、彼は懸命に応えようとしたのだ。喩え失敗しようとも、彼は「ファンのイエス・イメージを壊してはいけない」と奮闘した。これはリック・ウェイクマンという音楽人間の像の模倣を強要されたジェフにも言える。ファンは無言で、彼らに模倣を要求していたのだ。

 自分達のイエス・イメージが、崩れるのが怖いから。

 だからこそイエスは、トレヴァーとジェフは、バンド・イメージの模倣という手段を方向転換に選んだのだ。ファンの声に応えるべく、夢を崩さないよう、繊細なガラスの城を作り上げて見せたのだ。
 そうしてできあがった本作は、どうだろう? イエス・イメージを踏襲してはいまいか?

 回答は、未だに大半の人間にとってはノーである。

 理由は、何度でも言うが、そこにはジョン・アンダーソンがいないから。
 どんなに巧く模倣してみせても、ファンは本人でないと納得しない。感情が先走り、音をきちんと聴こうとさえしない。こうしてトレヴァー、ジェフ両名の健闘はむなしく、感情でもって聞き捨てられてしまった。

 だが、今にして――その後にプロデューサー業で、エイジアで大成した彼らの姿を知る今にして、本作を聴き直してみるといい。

 この成果を「モノマネ」のひとことで片付けられるだろうか?
 イエス・イメージを踏襲しつつも、オリジナリティ溢れる、今までのイエスには見られなかったアルバムとは言えまいか? その際、キース・エマーソンが弾く鍵盤の音色や、リック・ウェイクマンのそれを思い浮かべてみてほしい。そうしたイメージをもってして、それに近い音を聴くと「キースっぽい」だの「リックっぽい」だのと評した憶えは、あなたにはないだろうか? そうした「特徴ある鍵盤の音色」をこの時期のキーボーディスト、ジェフ・ダウンズも有している。

 それは――時代が『ドラマ』から前後するが――主に全盛期のエイジアを思わせる豪華絢爛な音かも知れないし、バグルスに見られたモダン/デジタル志向の電子音やギミック音かも知れない。はたまたソロのようなロマンティシズムか?……人によって彼の音色は異なるだろうが、キースやリックの音色のように、ジェフのそれが確立しているのもまた事実だろう。

 それが、イエスに於いては彼は「ジェフらしい」音色を多用していない。時折それを垣間見れることもあるが、一貫して「イエスの音」を出そうと懸命になっている様子がうかがえる。特にオルガンの音色を選んで聴いてみるといい。それはまるで、トニー・ケイのものに聴こえはしまいか? それはジェフ・ダウンズがプレイヤーよりも寧ろ、プロデューサー的気質と資質に恵まれた人物であったことを証明しているのだ。自分の求められる音色を弾き出す、その単純ながら最も難しいことを、彼はこなしてみせたのだから。

 トレヴァー・ホーンにもほぼ同様のことが言えるだろう。彼は本作のみでイエスを脱退し、後にプロデューサー業に転換して大成功を収めたのは周知の事実。そのきっかけのひとつが、実は本作であるのではないかと私は睨んでいる。彼はジョン・アンダーソンという人間のモノマネでもって、自分をプロデュースしていたのだ。自分の見られ方を知り、その対応を知り、結果を知り……計算的になる。そうして客観的な視線が絶大な武器になることを知り、プロデューサー業に活かしたのではないか、と私は思うのだ。そこには、ステージ上で歌う彼を度重なる罵声や投擲などでもって「ステージ恐怖症」にしてしまったファンのエゴも相俟って!

 トレヴァーを非難する者は、しかし、なぜか彼のプロデュース作であるイエスの『ロンリー・ハート』を非難はしない。なぜなら、そこにはジョン・アンダーソンがいるからだ。トレヴァー・ホーンは歌っておらず、プロデュースに徹しているからだ。わざわざ声色も声域も違うのにモノマネを強制された声は、そこにはない。
 だが、その『ロンリー・ハート』の大ヒットへ繋がる要素が、本作にも見え隠れはしまいか?

 ポップとプログレの融合、

 それである。
 本作には、ある時期から常にそれを(意識的にか無意識的にか)求めていたイエスの、この時期なりの回答が詰まっている。このメンバーなりの回答が詰まっている。確かに彼らは、種を撒いた。後々、ジョン・アンダーソンによって大樹となり得る種を。
 だがその種は、誰にも見られないままに植えられてしまったため、ずっと気付いてもらえずにいるのだ……


 長々と書いてきたが、つまり、端的にまとめあげれば、本文は以下の言葉に収縮できるだろう。

「本作は、最も浮気なリスナーと最も熱心なリスナーの好むものである」

 世の中には、名作も駄作もない。

 ただ、自分に合うか合わないか。または、売れたか売れないかの違いだけだ。

(KEN)

HP:KENの生悟り

DATE(2001/5/21)

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