7.海洋地形学の物語

1973

  1. The Revealing Science Of God - Dance Of The Dawn /神の啓示
  2. The Remembering - High The Memory /追憶
  3. The Ancient - Giants Under The Sun/古代文明
  4. Ritual - Nous Sommes Du Soleil /儀式
Jon Anderson: Vocals
Steve Howe: Guitars and vocals
Chris Squire: Bass and vocals
Rick Wakeman: Keyboards
Alan White: Drums
晴山一秀
Hawkeye
     
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晴山一秀の海洋地形学の物語

「ウェイクマンは何故カレーを食ったのか?」

 私のYes体験はリアルタイムが「究極」ですが、最初に聴いた&購入したのが「危機」、衝撃を受けて続いて友人から借りて聴いたのが「こわれもの」、勢いで奮発して「Yessongs」を清水の舞台、更には迷うことなくこの問題作を購入したのでありました。

 イマイチ「大好きだ!」と言う人の少ないこの2枚組ですが、私とて例外ではなく、20数年前の購入時には「神の啓示」と「儀式」以外はレコード掛けっぱなしにして寝ていたと言う一夏の甘い記憶しかありません。実を言いますと、「追憶」と「古代文明」につきましてはほとんど再突入後にやっとちゃんと聴いたと言うのが本当の所ではないでしょうか。何故か加速度をつけてハマッて行き、99年に紙ジャケが発売された折には迷うことなくこの2枚組を最初に買ったのでした。

 私は感覚的なことしか申し上げることの出来ない人間ですが、最近また聴き直してみて気づいたことがあります。「海洋地形学」ってえのは「危機」や「究極」と同じ様な心構えで聴いてはならんのだ、と言うことです。よほど悩み抜いた大作だったせいか構成も非常にややこしいですし、曲の長さ故、聴く方も全編通して緊張感を持続するのは極めて難しい。盛り上がる部分も割とあっさり目なので、「危機」に通じる昂揚感を期待すると肩透かしを食ってしまします。

 しかしながら・・・「海洋地形学擁護派」の私が声を大にして申し上げたいところは・・・4曲通じてのゆったりとした雄大な流れはタイトル同様象徴的で、リラックスして聴くには最適な音楽ではなかろうかと思うのです。激しい曲を聴き終えた後の「心地よい疲労感」はは臨むべくもありませんが、何となくぐっすり眠れそうな幸福感を残してくれるような気がするのですね。また、いささか乱暴ですが、これは唯一"聴き流せる"Yesの作品と言えるのではないか、とも思うのです。加えて、この思い込みに大きな理由づけをしてしまう要因となったのは、リック・ウェイクマンの温かい音色で溢れるシンセの響きだが大きいと考えます。
 この作品に対しては、メンバー間でも評価がマチマチなのはファンなら周知の事実です。コンセプト・メーカーであったジョンの後年の発言もどうも歯切れが悪いみたいですね。

 リック・ウェイクマンはこのアルバムのツアー(演奏中にビールをガバガバ、インドカレーも食ったと言うアレです)を最後に一回目の脱退をしてしまう訳ですけれども、その後のインタビューを読むと、いかに彼がこの作品を評価していないかが嫌と言うほど解ります。しかしながら「あんたそう言うけれど結構いいじゃんそのシンセ!」と怒鳴りつけたくなる様なシークエンスが一杯あるのが魅力ではなかろうかと、近年ますます思います。

 ライヴで演った時、一体どのあたりでカレー食っとったんだろーなーなんて想像を巡らすのもまた一興でありませんか。

(晴山一秀)

HP:プログレオヤジの憂鬱

DATE(2001/6/9)

 

Hawkeyeの海洋地形学の物語

『海洋地形学の物語』


 イエスの作品のなかで、規模的に最大のトータル・コンセプト・アルバムであるにも関わらず、語られることの少ない一作。

 ファナティックなイエス・ファンはともかく、そこそこのイエス・ファンやプログレ好きのマニアからも疑問符がつく場合が少なくない。
曰く『構成が単調』
曰く『冗長である』
曰く『メロディーラインに新味がない』
曰く『ブラッフォードがいない』

 聴感上これらの、異議申し立ては必ずしも、的を得ていないとはしない。
 少し、上記の項目を眺めて見れば判るのだが、言葉は違えども、指摘された内容はほぼ同一のことを意味している。
 ようするに、躍動感もしくはダイナミックな表現性に欠ける、といいたいのだ。音楽表現における躍動感とは、なにも表面的なリズムの変移だとかを意味するのではない。いわんや、変拍子の採用の有無・多寡等で決まるものではない。
 むしろ、プレイヤーの自発的なアイデアが如何に盛り込まれているかが使命を制する部分が大きい。(注:作曲者の意図ではないセッションにおけるアレンジングを意味する)

 そもそも、イエスが『こわれもの』『危機』で体現したのは、緻密な曲構成と破綻寸前の即興的なプレイヤーのアイデアとの最高度の相乗効果である。

 本作においては、この両者のバランスが崩れ、優れたハウのギター・パッセージやウェイクマンのメロトロン等随所に聞かせどころがあるにも関わらず、作品全体として、死んだように聞こえる。多くのリスナーがそう感じ、途中で針を上げたり、ストップボタンを押したのである。なにより、この演奏者の自由度のなさに、不満を唱えたのがウェイクマン本人であり、結局イエス離脱の要因になっていく。

 これだけでは、本作はそのコンセプトの構成に押し潰された凡作と言うことで落ち着くのであるが、我々が本作を語るには、今一度、本作で、イエスが何を意図し、何を為したのか、何が為されなかったのかを問い直す必要があるだろう。


 "Autobiography of Yogi"からアンダーソンが得たインスピレーションとは一体何だったのだろうか。
 超越瞑想のYogiであるならば、ある程度は想像は可能であろう。
 おそらくは、瞑想がもたらす壮大な叙事詩を着想し、さらに実際に作曲の過程で、4つのパートに分割することで、ともすれば、散逸しがちな、基本コンセプトを凝縮していく形をとったのであろう。

 注目すべきは、4つのパートを明確に4楽章として、アンダーソン(おそらくはハウも)認識していることである。言ってみれば、本作は4曲からなるコンセプトアルバムではなく、標題を持つ4つの楽章からなる1曲とみるべきなのである。
 その意味で海外の論調に見られる、シンフォニック・ロックの結晶という言い方は正しい。

 問題は、瞑想という、どちらかといえば曖昧さこそが、その本質であるものを、交響曲に擬えた堅牢な構築物の中に閉じ込めた点にある。

 本作は、とりわけウェイクマンのキーボードが重きをなす点で有名である。『地底探検』はいうに及ばず、きわめてクラシックに親和性が高い以上、本作で彼が主導権を握っていたかのように見えるには自然である。
 では、何ゆえ、ウェイクマンは本作を最後に離脱しなければならなかったのか。
 ブラフォードがイエスの構築性を重視する路線についていけず、離脱したのは分かりやすい。しかし、ウェイクマンはむしろ構築性の方が向いているのではないか。

 ここに、イエスの他のメンバーも含め、大きな謬見があったのではないか。インタヴューでも分かるとおり、ウェイクマンはメロトロンが好きだという。考えてみれば、これは実に奇妙なことである。
 メロトロン自体は大きな編成のオーケストラを必要とせず、アンサンブルを再現することに、その開発の主眼があったことは言うまでもないが、実際の楽器としては、音程そのものが不安定で、音の立ち上がりが極めて遅いという、ある種の欠陥があった。
 逆にいえば、がんじがらめな強固さが必要とされるクラシックからもっとも遠い楽器である。
 そんな楽器を好むというウェイクマンは本当にクラシックに親和感を持っていたのかと、問い直さざる得ない。正式な教育を受けただけに、かえってポピュラーの持つ自由度に惹かれたと考えるべきではなかったか。

 一方、アンダーソンやハウにはどちらかというと、クラシックに対するある種の憧憬、もしくは劣等感があったのではないか。ここに、本作が作品として抱える問題点が凝縮されていると思える。

 すなわち、曖昧さや不安定さを無理やり堅固な構築物に詰め込んだが故、結果的には、窒息しそうな閉塞感が作品全編を覆ってしまった。


 本項を書くにあたり、3度程、実際にその音を聞いてみた。
 残念ながら、本項のはじめに書いたように、興味を喚起する作品でなかったことを正直に告白せねばならない。 ただ、これはあくまですれっからしのロック・コレクターの戯言である。
 本作を最高作とする人は、かくの如き駄文は忘れて、本作の魅力を再度語って欲しい。

(Hawkeye)

DATE(2001/5/26)

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